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「ひのきしんスクール推進講習会」
平成25年9月24日(火)
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9月24日、月次祭祭典終了後、「ひのきしんスクール推進講習会」が開かれました。
講師は、天理教東宇治分教会長・吉村誠先生です。
吉村先生は、長年「憩いの家」精神科看護師長として多くの人達に接してこられました。
そのお話の全文です。

 

皆様今日は、えらいことになってきました。今、おつとめを控えの方で見させて頂きまして、十二下りが進んでいくに連れまして、何か刑の執行を待っているような気分で、お呼びに来られたときには、思わず足が震えてしまいました。
只今より、ひのきしんスクールの推進講習会ということで、私などをお呼び頂きまして恐縮致しております。史上最悪の講師を迎えられたなぁと思っております。精一杯お話しさせて頂きますので最後までお付き合い頂きますように宜しくお願い致します。

この度、ひのきしんスクールの精神科の講師に時折使って頂いている関係から、私みたいな者が大教会の神殿講話という形で、こんな凄いところに立たせてもらっています。上々級の神殿講話にも出させてもらったことがないといし、自分の教会で精一杯の私が、こんな凄い所でお話しさせてもらうというのは夢みたいやと思います。もう全く以てミスキャストやなあと思って居ます。まあそれでもこれが夢やないとしたら、ご縁と受け取るしかないなあと思ってます。

数年前、ここの大教会長さんが青年会の取材で、私の教会へ何度か足を運んで下さいました。だから内の教会のことも私の子供たちのこともよくご存じで、チョットええカッコしよかなあと思って居たんですがバレバレですので、あれ、全部嘘やでと言われたら困るんで、嘘も言えへんなあと思ってます。

そして、私みたいな者を呼んで頂いたのか、と思うんですけども、中和大教会の福祉部からお電話を頂きまして、とってもやないけど勘弁して頂きたい。と言って切りたかったんですけれども、切る間際になって、「ワシや、ワシや吉森や。」と言うんです。吉森っていうたら天理高校の同級生で、ラガーマンの吉森しか知らんしなあ。大体ラガーマンで天理に来る一流のスポーツ選手はだいたいお道には関係ないなぁと、私は決め込んでいたもんで、「吉森言うたら、同級生の吉森しか知らんけど。」と言うたら、「そうや・そうや、ワシや。」と、ビックリしましてね。これは断るわけにはいかんなあ、私でも良かったらと言う事で、お受けさせて頂いた次第なんです。そんなもので非常に分不相応ですけれども開き直ってやらせて頂くつもりです。もし、あかんかったら、アンナン呼んだ吉森先生の全責任ですので、そのように開き直っております。
きっと皆さんの先代とか、先々代と、私の先代、先々代がどこかでご縁があったものとそう諦めて頂いて最後までお付き合いして下さい。

丁度この間の台風の時に、私の上々級の教会が福知山にありまして、水がついたんです。もうチョットで神床までつくというところまで水が来て、家財道具がみんなパーになりまして、僕は取り敢えずと言う事で翌日に行きました。ひどいことになってましたですわ。

八年前の台風の時にも、「誠さんあんまり役にたたへんけれども一緒に行こう。」と言われ行きました。その教会が雨漏りをすると言うので、雨の降る中、どこかに御目標様を遷さなあかん。と言うのんで、僕らは随行してたんですけれども、そしたら「水が出た〜っ。水が出た〜っ。」と言う声が玄関からしまして、慌てて車に乗って移動をして、水が車の横まで来てて、「車のアクセル吹かせ〜。」と叫びながら走って、「山の方へ逃げろ。逃げろ。」と、そして、フッと後ろを見たら、もう村は湖状態になっていました。その時には村で三人のお年寄りが水死しました。

私は山の中で、とにかく山の上に行かないとと言うんですが、山崩れも怖いし、後ろは湖で、前は山崩れで死ぬんちゃうかなあと思いました。その日は、ワゴン車の中で一晩明かしたんです。まあ、これも開きなおらなしゃあないなと思い、「後ろに積んであるビール飲ましてくれ。」と言ったら、上々級の奧さんが「こんな時に、何言うてんの。」怒られました。そんな教会長です。

福知山の教会ひのきしんでは、僕が一番歳上だったので村には出て行かず残っていましたら、隣の家の人が来て「畳みとかタンスとか出したいから手を貸してくれ」と言われて、誰も居ないので、「ほな、行きまっさぁ。」と行ったら、今やと言わんばかりにドンドン出してくるんです。畳とかを運んでいて、段があるところで後ろから押されて、ど〜んと尻餅着いたときに、どうもひどい捻挫をしたみたいで、帰る間際になったら一歩も歩けないようになってしまいました。今は大分良くなってきているんですが、正座も出来なくて申し訳ないなぁ、という足で来させてもらいました。

自然の猛威には、人間の力は本当に無力です。あぁいう姿を見ますと心が痛みます。
僕は東北の方にも四回くらい行かせて頂きまして、それも、ある教会長さんに誘って頂いて行ったんですけれども、行った時に初めて、ボランティアで宮城県の山元町という所に行ったんですわ。まぁ、ひどかったですわ。震災後三ヶ月くらい経っていたのに、放心状態で家をほったらかしやったんです。初めてボランティアが入るからというのんで、家の持ち主さんが何人か帰ってこられたんですけれども、ナンにも話しかけられない状態です。とにかく三日間やれることを黙々とさしてもらいました。

一人はご主人を流された奧さんでしたし、一人は、昼ご飯を一緒に食べていて、地震が来て逃げるか、どうするかと家の外でしゃべっていたら、波が来て振り返ったら家内がもう居りませんでした。と、奧さんを流された人で、何んにも喋らへんかったです。しかし、帰り際になって、「一生懸命ボランティアしてはる姿を見たら、明日からボチボチでもやってみようかなぁと、チョットだけ光が見えたような気がしました。」と、仰ってくれたんです。僕みたいな無力な者でも、かすかでも力になった。と言って頂き、申し訳ないなぁと思いながら帰ってきたことを覚えています。

何でも気を逃さぬ親身のおたすけ≠ニあるけどね、自分には出来ないことでも何でもやってみることやなぁと思ってます。この世は理屈の世界やないなぁと、そんなふうに思います。
また、後でもお話ししますけども、看護師をやってた時や、教会長もそうですが、おたすけ・おたすけと言うて動いてますけれども、何時も後で振り返れば、救けられているのは、こっちやなぁと思います。たすけられたり、大事なことを教えられたり、たすけているつもりが、こっちがたすけられているなぁと思います。この東北の時もそうですが、言葉にはよう現せませんけど、大事なものを教えて頂いたような気がます。

僕の話ポンポン飛ぶんですいません。僕のところは、ほんまに小さな教会ですけれども、教会報出してます。以前は毎月発行してましたけれども、この頃は上々級の教会報を任されるようになって、自分の所は、ずぼらになって、年に三回か四回ほどしか出しませんが、先日久方ぶりに秋号として作りました。こんな話を載せました。チョット聞いて下さい。

おふでさきに、
めへ/\にいまさいよくばよき事と
をもふ心ハみなちがうでな    3・33
と、お教え頂いてます。

以前、お道の書籍の中に。…細かいところは忘れましたが、このような記事が載っていたのを今でも覚えています。
「ダウン症の赤ちゃんを抱え泣いて途方に暮れながら本部神殿に参拝に来られた若い夫婦に、貴方たちだからこそこの子供を安心して預けられると、親神様がお任せになったのだと、お話しさせてもらった。」と。確か、山本利雄先生が書かれた本やったと覚えてます。

「やがて、その子はたくましく成長し和太鼓の名手と成りました。布教所であった両親はその事を神様からのご褒美と受け取って、にをいがけ・おたすけに励んで教会の設立という運びになりました。奉告祭当日の記念行事、和太鼓の音が高らかに神殿に鳴り響き、感動の涙が参拝者のほほをつたったのでした。」というような内容の本でした。

ダウン症候群の日本での患者数は、約5万人と言われています。1000人に1人の確立で生まれてこられます。ちなみに私が25年間かかわってきた統合失調症ですが、昔は精神分裂病と言いましたが、患者さんはおよそ75万人居られます。120人に1人です。生涯発症率、おぎゃあ≠ニ生まれて出直して行くまでの発症率は0.8%と言われています。古今東西、アフリカに行こうがアラスカに行こうが何処に行こうが120人に1人。という確立で、精神分裂病、統合失調症と闘っていく方が居られるわけです。どちらも決して他人事ではありません。他人事ではない世界です。

最近、「アホやけどのりお」というダウン症に関する本を読みました。素晴しい本でした。関心のある方は読んで頂きたいと思います。何度も泣いてしまいました。その本に書いてあったのは、ダウン症の兄弟の話ですが、1人で歩くことも出来ない5歳の妹をもった小学校4年生の兄は、当たり前のように何時も妹を抱きかかえていました。5歳になってやっと立てるようになった妹の歩行訓練を、1日も欠かさず行ったのです。そして妹は、当たり前のようにダウン症の姉を便所に連れて行ったのです。

私は精神科の看護が好きで、精神科に携わった25年間でした。看護師と書いてますけども、精神科だけです。精神科の看護師でした。私には現在5人の子供がおりますが、本当は6人で、2人目の子供が無脳症という先天性の奇形で生まれてきました。私だけがその顔を見ました。脳が全然ありませんでした。顔は私に似てごっつ男前でしたけれど。生まれておぎゃあ≠ニ泣かんと死産でした。

私は病気だけに留まらず、不慮な事故も災害なども、おしなべて他人事などと言うものはない世界に生きているんだと、経験からも思い、自分にも言い聞かせています。他人事なんてないんです。他人の災厄や難渋に、ワシには関係ないというような、たかをくくってはる人がいますけれども、たかがくくれているだけなんです。

教祖は、おっしゃいました。
「根が張っている限り華が咲き、実が実る。」
私は河原町部属の東宇治分教会。上級が二つ挟んで教会を預からせてもらってます。信仰は三代目です。私の祖父、吉村芳蔵は、20歳の時、死んだ人の匂いが鼻から離れないと言うて、怖がりながらスッポンポンになって田んぼの中を走り回っていました。恐かったんやと思います。いわゆる精神分裂病ではなかったのかなあと思います。午後には統合失調症について私の経験談を話させて頂くつもりですけれども、祖父は全てを投げ出して、文字通り裸一貫から出直しました。土地も家屋も全て教会に御供して、会長さんに、教会の裏に納屋を建ててもらいまして、そこから家の道が始まったのです。

「水と神とは同じ事、心の汚れを洗いきる。」
水は何処までも低きに流れていきます。それからは水の心を求めて何処までも低い心で歩んで下さいました。地に染み込んだ爺さんの水の心で今の私がありますし、お陰で子供が5人。孫が9人居ます。私は遺伝という言葉がありますけれども、遺伝とは、(私が勝手に思っているんですけれども、)悪因縁というスイッチが入りやすい、油断するとプチッと入ってしまう系統の中に居るんではないかなあと思ってます。

世の中、お父さんもお爺さんも糖尿病で、私も糖尿病ですねんとか、私も精神科で勤めているとき統合失調症の兄弟や親子なんか見てますけれども、統計的には解りませんけれども、ぼくは、因縁というのは、スイッチが入りやすい、系統の中に立って居るんだと、そんなこと考えると子供5人、まあまあ出来は余り宜しくありませんけれども本当に有難いことやなと思ってます。

子供5人、長男は看護師してます。次男看護師やってます。真ん中は保育士で、障害者のお世話などさせてもらって、今結婚してますけれども3男は教校本科の職員で、今おぢばで頑張ってくれてます。4男は高校の先生になりたいというてガンバってるんですけれども、私と同じように出来は余り良くありません。けれども皆、人と関わる仕事に就きたいということで、人と関わるのが好きな連中です。これはある意味奇跡やと思っています。人生は長いようで短いです。多くは望みません。それぞれが決して横柄にならず何処までも謙虚に、そして優しく水の心を旨として生きていってくれたらそれで十分やと思ってます。

この辺で私が精神科の看護を始めた触りの部分を少しお話しさせて頂きます。私の教会は借地借家の長屋で、1年に5度も6度も水が浸くところで20歳までそこの教会に居ました。参拝場は4畳半でした。
天理高校を卒業してちょっと勉強して夜学の大学でも行ってどこかに就職でもしてと思いながら、信者さんの牛乳屋さんに住み込んでブラブラしているときに、母親が「チョットはふしんの力になったら」と言うて、精神科に看護助手の募集があると話を持ってきました。初任給は3万8千円でした。なんでよう覚えているかと言うと、そのうちの2万円は一番に抜かれていたのでよう覚えてます。そんなに勉強にも力が入らないので行ってみようかと思い精神科に行きました。

行ったその日に宇宙と交信するという青年が、食事をするアルミの皿をUFOやと言って、と投げつけてくる。(エイリアンの言葉でわけのわからない言葉を発しながら)青年が投げたステンレス製の皿が飛んでいって、詰所のガラスにあたり割れてしまい、大変でした。
そして、しばらくして保護室という部屋が、ドイツ語でツェレと言うんですが、その人を保護する鍵のかかる部屋なんですが、私が行ったときにはトイレがまだ汲み取り式でした。環境の悪い昭和45年でしたから、そこの部屋に食事を運んでいた時、スリッパを持って「ローレン・ローレン・ローレン パ〜ン。ローレン・ローレン・ローレン。 パ〜ン。ロ〜ハイド。パ〜ン。」と壁にスリッパをぶつけて。「オ〜イ、吉村。お前はこんなしょうもない仕事せんと天理大学行け。俺が勉強教えてやるから天理大学へ行け。ロ〜レン、パ〜ン。」と、(ここは、俺には仕事でけへんな、)正直初めにそんなふうに思いました。

それでも僕の仕事は看護助手でしたから、おむつの交換をしたり、時々看護婦さんに「おむつの交換手伝うて」と言われたり、食事の準備をしたり、物品を運んだりと下働きでしたから、何とか務めていけたんやと思います。

私の務める病棟は、宇治の山の上にあります。眺めると左の端の方に遠くに生駒山が見えて、正面は西山連峰。裾野の方にはサントリーのウイスキーの工場があるところ。右の方に京都の競馬場。今でも覚えています。競馬場が見えて宇治川が流れている素晴らしい景色の所なんですね。

ある日病棟の中に掃除に入ったら、何時もはニコニコと笑顔を振りまいている、精神分裂病の私より4,5歳上の男の人が、2段の窓になっている高い窓を開けて、鉄格子にぶら下がって猿みたいな格好をしてえらい泣いてはるんです。上の方だから危ないから、「上田さん、危ないから降りてきて下さいよ。」と言うと、「おぅ、吉村君か。おれはなぁ別になんにも悲しいて泣いているんやないねん。悲しないねんけれどもなぁ家に帰りたいねん。」と言って泣くんですよ。「ホンマの上田の達はな、家の方で幸せにしとんねけど、おれ、偽もんやけど、偽もん達も家に帰りとうてなぁ。」と言って泣くんです。そして、歌をうたうのです。チョット歌うてみますわ。
「涙がこぼれて、止まらないときは、丘に登って空を見て、草笛を吹こうよ、風よ風よ伝えておくれ若い僕らの悲しみを、み空に浮かんだあの雲を……。」こうして泣いてはるんですわ。それを見て、人生って何やろうなぁと思ったのを覚えてます。この人、19か20歳で入院してきて、5年も病棟に居はる。この分やと家に帰られへんやろうなぁと、思ったんですわ。
で、今看護助手やけれども、もうチョット勉強したらこの人等の力にもうチョット成れるのではないかなぁと思って、その日に、院長の所に行って、「准看護学校に行かして下さい。」と、頼みに行ったんです。そしたら、坊さんの息子さんの院長でね、笑いなから近寄ってきて、(当時、髪の毛を肩の横まで伸ばしていまして) 髪の毛を鷲掴みにされて、「これ切らなあかんなぁ」と。そして、「行ったら良いがな。」と言ってくれはったんで、それから准看の学校に行ったわけです。

愛しかったです。その愛しい光景は、あれから四十年以上経ってますけども、今でも覚えています。それで、准看の学校を卒業しまして、色々ありました。准看に務めているときに自殺もされましたし、やれるかなと思いましたけども、そのまま天理の高等看護学院に行かせてもらいました。その天理の高等看護学院が今年いっぱいで卒業生が居なくなって医療大学に成りました。閉校に成りましたから、僕は七期生なんですが天理高等看護学院のその閉校に当たり、記念誌を出すから書いてくれと言われて、書いたんですが、今からそれをチョット読みます。

「拝啓、教祖百三十年祭の三年千日の初年、立教176年の9月4日。 大の仲良しの中村次白川分院の総婦長から閉校に寄せての原稿依頼が有ったことを忘れていた私は、慌てて締め切り間際になってパソコンに向かっています。月日は百代の過客とやら、早いものであれから40年。私たち7期生も青春の真っ只中2二年間を泣いて笑って旅人のように通り抜けました。「当時看護師なんぞはオカマじゃないのと言われ、途中で挫折するであろうと思われた男子生徒第一号のマコッチャンです。予想に反して優等生として知識が詰め込まれた私の脳みそも今ではカラカラと音を立てて空洞化の一途、代わりに詰まれば命取りという感情動脈が詰まってしまった私、あれから40年。働いても働いても、お金は貯まらず、じっと、じっと手を見ている間に中性脂肪ばかりが溜まってしまった私、ここで一句。
「喰って寝てそろそろ私も出棺時期。」あれから40年これを書きながらも中途退学をしてしまった人たち含めてみんなで会いたいと目頭が緩んでいます。
バスケットの授業後。「その顔で、私のお乳をワザと握ったでしょう。」と、マジで血相を変えた○○さんお元気ですか。老婆は一日にして成らず。きっと張りのあった〇〇さんも、あの人もこの人も、私と同じように加齢なる変身をなさっていることでしょう。上がるは血圧・血糖・尿酸値。身体はダラリとサガリンコ。老齢化みんなで歩けばまた楽しい看護師が18年前に廃業した私ですが皆のおかげで私は私として、何とか生きています。 ……出席点呼の声が聞こえてきます。みんなとにかく元気で長生きしてください。」
まだ発行しませんから内緒にしていてくださいね。未発表の原稿ですから。生徒120人の中に男性が私一人でした。酒池肉林、決してそんなウハウハな世界ではありません。若かったあの頃だからこそ、そこに居るだけで必死だったような気がします、天理准看婦養成所というのがあったでしょ。そこから5、6人の男の子を育て「憩の家」で頑張ってもらおうと、そういう思いがあったようです。天理准看護婦養成所に行った男の子は皆挫折して、天理看護学校には来ませんでした。思っていた以上に女の世界に飛び込んでいくのは大変な事でした。私は河原町の詰所から通いましたけれども、壁に石の上にも三年≠ニ書いて頑張ったのを思い出します。学院の方でも私が入学してから対応に困ったみたいで、男の便所もありませんでしたし更衣室もありませんでした。初めて大便をする為にトイレへ入ってましたら、120人の人たちが入れ替り立ち替り入って来る。出るのに、十分から十五分程じっと我慢していたことが有り、もう一回きりです。その後、行けませんでした。そしてその事を事務所に言ったら職員便所を貸してくれました。
実習があってシーツ交換などに行くと皆看護婦さんで男の子が私一人だったら、患者さんみんな気持ち悪がります。(あの男の人何?)と、小さな声で言われます。外来を歩いても、事務員さんが見つけて、「あの人変わってるやろ。男で看護婦になる人…」と、ひそひそ話。それでもその中を頑張りまして日本で2021番目の看護士になりました。男としてです。ちなみに現在日本国内で働く男性の看護師は4万人から5万人と言われています。看護師さんは100万人ぐらいいますが、男性は5%位です。

よく覚えてるのが、教義の時間に洲本大教会の統北分教会の山本正義先生が、私に「君か男の子で看護師なるというて入って来たのは君か。欧米では男性の看護師は一杯居るねんで。大変やろうけどしっかり頑張りや。」と、言うてくれはった。顔まで覚えてます。もうお出直しになられましたけれども、嬉しかったです。

たいした看護師ではなかったけれども、長男次男を始めこんな世界があるのかと次第に沢山の看護師を目指す者が増え相談に来るようになりました。今でも第一線で頑張ってる連中は律儀にお酒を持って、あの時はお世話になりました。と言うてきてくれることがあります。
その中から看護師として病む人の力になってくれる人が沢山育ってくれているので、持ち場立場で間接的にも人たすけの世話をさせてもらってるのかなあと、自分に言い聞かせたりもしています。近くの教会の長男が本部勤めを終えて帰ってきまして、今教会にいますけれども、ただ教会のご用だけをするのではなくて、寸暇を惜しんで准看護婦の養成所に通っています。また大阪の友人の教会の次男坊は正職員で企業でパソコンに向かって座ってますけれども、病気の人のお世話がしたいからと言うて、家の子供たちに相談をして、土・日と勉強に来ています。席を置いたままにして准看の学校へ行きたいと言って息子が教えています。(アホがアホに何を教えてんのやと思いますが。)でもね嬉しいですわ。
勝手に思ってるんですけども教会に育ったものは感性が良い方が多いと思ってます。親々が自分の事を二の次にして人に喜んでもらいたい。たすかってもらいたいという生き様は、きっとレールだと思います。そのレールの上をやっぱり何かの形で人に喜んでもらいたいという列車となって子供が走っていく姿なのかなとも思ってます。

出来る看護師は、私は育たなくてもいいと思っています、良い看護師に育ってほしいと期待しています。看護は、きつい・汚い・危険の3Kと言われてますけれども、そんなの関係ありません。仕事も大変なことが一杯ありますけれども、大変という言葉を私は大切という言葉に置き換えて頑張って行ったら良いと思っています。
ちなみに私の次男は看護師をしながら私の所の事情教会を今持ってくれています。教会のご用は疎かに出来ないからパートの夜勤専門で月七・八回行って、教会長を頑張ってくれています。そうしないと信者さんがほとんど居ませんから、食って行けませんので、子供も養えませんので最低限の給料で行かしてくれと言って、夜勤だけ行って頑張ってくれています。ここの大教会長さんもよくご存じです。
三男坊主は教校本科の職員で、先日もこんなメールを送って来ました。
名古屋で布教実習に付いて行って、「父さん今晩は。今日も一日有難う。今日は一日一人で歩きました。今西さんと歩く予定が変わりました。今西さんとは明日かな?朝は交差点で路傍講演から始めて、勢いをつけて戸別訪問に行きましたが、中々続かず公園で休みながらで、回ってきました。断られてばかりですがボチボチと回らせてもらっています。残り八日焦らずゆっくり歩かせてもらいます。有難う。」長男はそんな兄弟に良い意味での刺激を受けながら、家の教会から憩いの家に看護師として通っています。長男は兄弟に良い意味での刺激を受けながら申し訳ないなぁと思ってます。思いながら看護師として働きながら教会後継者として一緒に暮らしています。人のお世話をするのが好きみたいです。

私と違うところは、つくし・はこび≠ェ鮮やかなことです。頭が下がります。ここの大教会長様は、そんな道の後継者も居るよと言う事で、青年会の取材に来られたのではないかと思ってます。ご存じのように河原町の詰所は新しくなりました。その、河原町の詰所が新しくなる時に、私の仲の良い准員が、「吉村さん、昔の旧詰所の思い出の原稿を書いてもらおうといろんな会長さんにお願いしたんやが皆断りよんねん。何とか吉村さん書いてくれへんか?」と夜中の11時頃電話かけてきました。よっぽど困っていたんでしょうね。「締め切りは何日?」と聞くと、「明日や。」と言うんです。いつもお世話になるばかりやから、「解った。おれ書くわ。」と言うて、書きました。チョット読んでみます。

私が憩いの家の30病棟と言って、今はもう白川に移ってますけど、鉄格子がはまってた3階の病棟で、20年間どういう思いで仕事して来たかたいうのも含めて、書いたつもりです。

『先日15年ぶりに憩の家の精神科へ行った。患者さんたちの文化交流会に招待されて行った。アミーゴスの演奏は大盛況で、普段よりも人と交流を避けるように病棟生活を送り、感情を表に出さない方たちも大いに盛っ上がった。嬉しい限りであった。終了後看護師さんに案内して頂き病棟を尋ねた。病棟を歩いた。私が退職した時に入院した方がまだ数名闘病生活を続けられていて、「久しぶりやねぇ元気にしてるの。」と、手を握り喜んでくださった。それは私が言わなければならないセリフなんだけどと、苦笑しつつ、病んで尚人を思いやる、その優しさに胸が熱くなった。憩の家30病棟に勤めた20年間。私はいわゆる、良く出来る看護師でもやり手の看護師でもなかったけれども、純粋なゆえに病いと戦わざるを得ぬ運命を引き受けてくれている統合失調症の皆が愛おしくてならず、その気持ちは忘れる事なく看護を行って来たのかなあと思っている。看護助手から看護という職に就いた私にとっては何も特別なことではないが、病棟の師長になってからも時間が許せば看護助手さんと共に配膳を行った。そんなある日、ふと思った。毎日の献立は給食課の方が毎日変化をつけるために人力をして下さって居るが長期の入院を余儀なくされる患者さんにとっては、来る日も来る日もステンレスのお盆に乗った食事ではやり切れないだろうなあ、ヨシ≠キき焼き大会をやろう。少しでも家庭の雰囲気を取り入れるために病棟を出てやろう。そして普段外出が困難な人も出来るだけ参加してもらおう。給食課には材料の準備などの無理なお願いしケースワーカーにも協力をお願いした。河原町の詰所も私たちの思いを快く理解してくださった。準備万端整えてマイクロバス2台で乗り付けた。年に1度、退職するまで何年も続けたが、初めて行った日、材料の白菜やねぎをニヤニヤ笑いながら包丁で切る患者さんを見て食堂のおっちゃんが「吉村さん、包丁やら持ってもらって大丈夫でっか。」と、心配そうに耳打ちされたのを今でも懐かしく思い出す。すき焼きは言うに及ばず4号館の歳月を積み重ねた障子部屋の擦り切れた畳と青年さん達が準備してくれた年代物の丸テーブルが一層家庭的な良い味を出していた。職員も患者も一緒になって鍋を囲み箸を入れた。うまかった。さすがにビールは出せなかったけどこんな昼食は初めてのことだった、お腹が一杯になって気がゆるんだ訳ではなかったのだが、病院へ帰る際、1人行方不明になり、郡山警察迄迎えに馳せ参じたのも今はもう昔の懐かしい良い思い出の1コマ。
本年1月か3月まで教養掛を務めた私は時を駆けながらあの時と同じ部屋で鍋を囲んだ。』という詰所の思い出です。

私の憩の家での20年間は閉鎖病棟の限られた空間の中で闘病生活を送らねばならなかった旧態依然とする、看護の常識を、これではあかんやろうと覆しながら、自分なりに一生懸命社会に近い開放的な処遇を目指して来た20年間でした。いつも接している、関わっている相手は自分であり親であり子供であるんだと自分に言い聞かせながらの20年間でした。勿論力は足りませんでしたけれども、退職する前に職員食堂の側に患者さんが運営する喫茶チューリップ≠ニ言う喫茶店を開く事が出来ました。そして私は辞めました。私は、45歳になってました。

よろづよ八首すら順番がわからないので、辞める時に修養科へ行きまして、ホンマにおてふりなど何にも知りませんでしたから、修養科で覚えようとしたんですが、丁度同期に統合失調症の人が入ってきて、「お前良い処に入ってきたなぁ、お前、三カ月間一緒に連れて通れ」と、詰所主任から言われ、おてふりを練習している暇もありませんでした。ですから何にも覚えられずに、このまま教会に帰る事も出来ないし、そのまま布教の家に行きました。そして帰って来て、親父もだいぶ弱っていましたからお許しが出るかと思っていましたら、1年間大教会青年に来いと言われて行かしてもらいました。大教会青年に行ったら、大教会中年やろ。と言われました。46歳になっていました。大教会中年も終えました。それから教会を預からせもらっています。18年経ちますけれども、病院勤めは8時間ですわ、教会のお勤めは365日24時間、今でも私の天職は看護師ではなかったかなと、そんなふうに思う事もあります。退院して来て、頑張っている方々。そんな方々と今でもお付き合いがあります。その中の1人きくぼっち=Aという人がいます。仲の良い友達です。これまた不思議な縁で大和高田で、ここから手の届くようなところに住んでいます。ホンマ不思議や思います。

その前に、昔読んだ「髪の花」という本ですけれども、チョット読ませてもらいます。
統合失調症にて入院した娘さんがよくなって、やはり同じ統合失調症で入院している母親の見舞いに行くとゆう。そういう場面です。
「病院の受付で、りえこは母の名を言い、どの病室に居るのかと聞いた、どういう関係かと問われ、思わず親類の者だと答えた。自分は娘であり、しかも同じ病である。それが正常なものの立場に立つと、親を親でないと答える。正常という、親の愛情とすり替えても良いような立派なものだろうか。だが理屈はどうであれ、りえこは娘だと言えなかった。そして心の中で母に詫びた。知らないものに社会から恐怖を持って見られる患者の家族と見られたくなかった」と言う「髪の花」という本なんですが、抜粋して1部分読ませていただきました。

精神科、精神の歴史をずっと紐といてみると拘束と偏見の歴史≠ナす。その中にありました。そしたら、今はその中に無いのかと言うと、やはりその中にあるように私は思います。

話を元に戻して、きくちゃんは、病気の当事者同士で結婚をして病と戦いながら、そして世間の荒波にも、もがきながら頑張っています。手紙が来ました。

「吉村さん、こちらは夫婦仲良く毎日を過ごさせてもらっています。貧乏ながらも毎日のように2人揃って、安いコーヒーを飲みに行くのは日課ですし、週に1回は大好きな映画鑑賞を楽しんでいます。綾ちゃんはもうすぐ高田のエイブルに行きます。高田はワーカーさんが親切で助かっています。綾ちゃんはYちゃんの墓参りがしたいと、常々言ってます。もし時間さえ許されるのであれば、夫婦揃ってKちゃんの墓参りをしたいと思っています。
(Kちゃんも、話すと長くなるのでしゃべりませんけれども)
吉村さんは忙しいからなあと、二人して言い合っています。天理教の本部には二人揃ってよく参拝に行きます。この間も行きました。二人でよく話題に上がるのが、天理よろずに入院していた頃の事です。あの頃は辛い事もあったけれども、楽しい事もありました。我が家にはKさんが遊びに来てくれました。今度はAちゃんが来てくれるみたいです。楽しみです。吉村さんも、もしこちらに来るような事があれば、又是非立ち寄って下さい。
それでは又、きくぼっち」
これも、不思議な縁です。

先日、仲良くさせて頂いているクリニックに寄ったら、マインド奈良≠ニ言う雑誌が置いてあって、見たら、きくちゃんの文が載っていて、最後にぼくが送った絵手紙が載っていて、ごっつう嬉しいなりました。きくぼっちも頑張ってんのやなあと、嬉しくなりました。

みかぐらうたに、
みなせかいがよりあうて   
でけたちきたるがこれふしぎ  (三下り目 三ッ)

なにかよろづのたすけあい
むねのうちよりしあんせよ。  (四下り目 七ッ)
と、あります。このみかぐらうたが大好きです。

どんな災厄や難渋も、決して他人事という事はありません。全ては我が事なのです。思うような結果が得られず、俺は何をして来たんやろうかといつも何時も思っています。そんな時、それで良いんだと自分に言い聞かせる事にしています。大変な事は大切な事です。胸の内より思案して、燃え尽きず匙を投げずに関わり続けて行く事が私の持ち場立場なのかもしれないなあと、自分を褒めるには程遠い会長でありますが、自分に甘えて納得したりしています。

最後になりましたが、教祖は、優しい心になりなされや、人たすけなされや、クセ性分をとりなされや。≠ニ、おっしゃいました。優しい心になれるように努力して、人の痛みを我事として歩き続けているうちにいんねんの自覚が出来て行くんだよ。と、教えて下さって居るのではないでしょうか。

このような機会を与えて頂いて、本当にに有難うございました。
今お話しさせて頂いた事は、全て自分に、しっかりせいよ。と、言い聞かしてる話です。
まとまりのないよくとぶ話ですが少しでも愛しさや優しさが皆さんの心の中に生まれて下さったならば本当に嬉しい限りです。
どうも有難うございました。



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